ディーノへの思い ー 後編

2022.05.22

ディーノはフェラーリなのか、ディーノという別のクルマなのか、ということをテーマとして「フェラーリに通じる楽しさ」や「精神的な共通点と相違点」についても当時の記事に記述されていた。開発に携わった人々の想いとか、ディーノの背景にある愛憎とか、人々の感情とか、精神的なものを含めたディーノの世界観ってやっぱりフェラーリとは違う。「そうだよね~」と昔の僕の記事を読んで改めて思った。

僕がディーノをフェラーリ美術館の松田芳穂オーナーから譲ってもらったのは1997年のことだ。

「太田くんはフェラーリの中でどれが好き?」と聞かれ、「ディーノです」と答えたら、「それでは美術館に展示してあるのを譲ってあげよう」と言ってくれた。

ナンバーを再取得して、動かせるようにして近場を走っていた。

その当時の最新鋭だったF355は、ピュアスポーツカーとしてディーノの延長線上にあるクルマだと思う。現在のフェラーリの最新鋭モデルはもっと馬力があって、でも電子制御が前提のスーパースポーツで、ディーノやF355とは違うジャンルのクルマになってしまった。まるで宇宙船とプロペラ機を比べるようなもので、比較のしようがない。

現在の最新フェラーリは、物凄いスピードが出て超絶的なコーナリングができる。けれども自分が運転しているのではなく、凄い性能の乗り物に乗せられているという感覚に近い。ピュアスポーツカーは、あくまでも自分が汗水たらして運転するもので、腕を磨くとその先に別の付き合い方が現れてくる。F355や430ぐらいまでは、そういうクルマだったと思う。

ディーノと往時のフェラーリとの違いで言えば、フェラーリはエンツォが考える理想が表現されたもので、クルマもドライバーも速さを極めるための道具だと考えられている。でも、ディーノはエンツォではなく、病弱だった息子のアルフレードへの思いを表現したクルマではないかと、ステアリングを握ると思えてくる。

 

ディーノにはエンツォの早世した愛息アルフレードに対する優しい気持ちが表現されているように感じる。現役の時に僕が日常的な付き合いとしてディーノを求めたのは、そういうホッとできる面を求めたからで、さらに自分の父親との確執をエンツォとアルフレードのエピソードに重ねようとしたからなのかもしれない。そんなことを昔の記事を読んで改めて思った次第。